2021.06.17
二宮和也さん、38歳のお誕生日おめでとうございます!
お誕生日に寄せて記事を書くのもこれで5回目になりました。
37歳の二宮くんはYouTuberになって、それからパパになりました。だけどこれは属性が塗り替わるのではなく、彼を構成するものが1つまた1つと増えていっただけの話で、37歳の1年間、それから、2021年を迎えてもやっぱり、私にとっての二宮くんは嵐で、アイドルでした。
歌って踊る姿を見る機会は当然のことながら殆どなくなってしまったけれど、相変わらずバラエティ番組やYouTube、ラジオでお喋りを聞けるのが本当に嬉しくて、この人の視点の置き方や語りの切り口がどうしようもなく好きだなぁと噛み締める日々。
ほとんど誕生日くらいにしか更新しなかったこのブログですが、この一年の間は二度ほど記事を書いていました。
ここ数年間のあれやそれやを振り返ってみたり、これまで二宮くんが教えてくれた〝生きやすく生きるためのヒント〟を集めてみたり。
自分でアウトプットの機会を増やした結果、今日ここで何を書こうかなってちょっと悩んでしまったのも事実で。二宮くんについて今の私が書きたいことは割とあの二つの記事で網羅できてしまってるんです、面倒臭がりとかじゃなくて本当にね。
37歳だった二宮くんの1年を振り返ってみると、バラエティやラジオで楽しそうにお喋りする二宮くんも、映画館のスクリーンいっぱいに映る二宮くんも、YouTubeでのびのび好きなことをする二宮くんも、ぜんぶぜんぶ当たり前に大好きだけど、本音を言うとやっぱり、歌って踊る二宮くんに会いたいなぁと思ってしまいます。
お仕事の幅がとにかく広くて、そこが魅力であり面白さでもあるアイドルという存在の、やっぱり私にとっての根幹にあるものは〝歌って踊ること〟なんだって、改めて痛感する半年間でした。
根っからの多趣味オタクなので私の人生には常に嵐以外の〝何か〟〝誰か〟も共にあって、今までもこれからもお世話になる予定だけど、〝嵐〟からでしか得られないエネルギーが確かにあって、〝何か〟〝誰か〟は〝嵐〟の代替品にはなり得ません。逆も然りね。喪失感を他のもので補完することって、きっとできないんだろうなと思います。少なくとも私はそう。
もちろんニノさんもベイストもジャにのちゃんねるも存分に楽しませていただいてるけど、それでもふとした瞬間に猛烈にアイドルとして歌って踊る二宮くんが恋しくなったりして。たとえば、今まで当たり前のようにトリを飾ってメドレーを披露してきた大型音楽番組の出演者に名前が挙がらなかった日とか、たとえば、好きなアーティストの新譜を買いにタワレコに行った日とか。もっと言うなら、Apple Musicのシャッフルで嵐の曲が流れただけで本当は寂しくて堪らない。なんだってこんなにも夏の終わりの哀愁が漂う曲が似合うんだ嵐は。好きです。
我儘な私はどれだけ供給があったところでやっぱり寂しいので、この頃は自分のTwitterのIDに「かわいい」とか「好き」とかの言葉を添えて検索をかけて過去の自分が書き綴った二宮くんの話を咀嚼し直して悶えるなどして過ごしています。自給自足オタクさん!
そういう過ごし方をしているとやっぱり、どれだけ些細な書き残しておくことがどれだけ未来の自分の救いになることか、と実感する。残念ながら私の脳味噌はそこまで優秀にできていないので、どれだけ美しい記憶だとしても記録しておかないと簡単に朧げになってしまうから。
だから、さっき何を書こうか悩むなんて言ったけど、今日この記事を書くことも来年や再来年の私のためには絶対に必要なことなんだと思います。
そう信じて、37歳だった二宮くんの話をしてみよう。37歳だった二宮くんが新しい発信の場として選んだ、YouTubeの話をしてみよう。
かつて裏方に回ることに興味を示していた二宮くんが20年以上徹底して表舞台に立ち続けた今、演者の目線を持ちながら企画編集・運営に携われるYouTubeはこれ以上ないほどに彼に向いているフィールドなんだろうと、のびのび楽しんでいる姿を見るたび噛み締めています。
ぼくの夢はYouTuberです!なんて、冗談めかして何度も言っていたけれど、こんなに素敵な形で叶うなんて思ってなかったな。
再生回数が全てではないことを前提として、観てもらう動機付けに対してしっかりと戦略を練っている二宮くんが好き。
始動までの過程を追えた方がいい、そこが見えない巨大コンテンツに新しく入っていくのはハードルが高い、という思考のもとでチャンネル開設の裏側のすべてにカメラを回していたと知って、なんて聡明で論理的な人なのだろうと思った。YouTubeに投稿した動画は削除しない限り基本的にずっと残り続けていくものだからこそ、いつから入っても〝始まり〟に立ち会える仕様にしたことは、これから裾野を広げていく上でも絶対的に有利に働くことでしょう。
多くの人が楽しめるものを作ることは結果的に再生回数や登録者数という目に見える数字に現れてくるので、節目の数字のお祝いを見るたびに良かったな〜嬉しいな〜と思うし、その勝手ながらも抱いているある種の当事者意識のようなものは「最初の最初を見せてもらった」ことのおかげなのかなぁなんて考えると、二宮くんって本当にすごい!〜CANMAKE TOKYO!〜という感情に帰結しませんか?
二宮くんって本当にすごいんですよね。わかります。
テロップや概要欄でかわいこぶったことを書く二宮くんが好き。自分のどこがかわいいと思われているのか、結果だけじゃなくその仕組みにまで自覚的なところが好き。
私は二宮くんのことを「己の可愛らしさを99%理解している餅」だと思ってるし、その二宮くんから不意に零れ落ちる1%の無自覚で無防備なところを拾い集めて言葉にして記録することにこれ以上ないほどの喜びを感じているタイプのオタクです(きもちわるい自己紹介だね…)。
だから、二宮くん自身が提示するものに99%の部分の言語化が含まれているYouTube、楽しくないはずがないんですよね。二重否定は強い肯定です。
YouTubeってテレビと同じく映像媒体ではあるけれど、バラエティ番組を観ているときと大きく異なるのはこの部分なんだろうなと思います。二宮くんの手が加わることで、二宮くん自身が見せたい姿がより明確になる。セルフプロデュースに長けた二宮くんに、やっぱりぴったりの場。
自分に対する需要がどこにあるのか的確に掴み取っている二宮くんが好き。
さっき書いた「かわいい」に対する姿勢もそうだし、チャンネルメンバー4人がただ喋っているだけで絵として成立することをわかっているところも好き。
それから、たくさんのファンが自分の歌やダンスを切望していることを知っている二宮くんが好き。
チャンネル登録者250万人突破記念にオリジナルED曲を作ってくれたとき、歌うのかな…?ってみんながそわそわしてたのを見てごめんね違うよって教えてくれたの、優しい愛だなと思った。
嵐の休止期間中に二宮くんがその部分をどう扱うつもりなのかはわからないしどちらにせよ私は二宮くんの選択を支持する他ないのだろうけれど、少なくとも期待されていることをきっちり認識してくれていることはわかっているので、私はちゃんと大丈夫です。寂しいなぁという気持ちが消えることはないけどね!
今年の私は寂しさを抱えて、それでもどうしたって二宮くんが好きでした。
演じるように歌う二宮くんが好きで、関節をやわらかく使って舞う二宮くんが好き。だけどそれと同じくらい、屁理屈をこねくり回す二宮くんや変な設定の嘘を重ねる二宮くんが好きで、そういうおふざけの時間の中に不意に真っ直ぐな正しさで貫いてくる二宮くんが好き。何度も言うけど歌やダンスを見る機会がほとんどなくなったことは寂しい、でも、結局のところ二宮くんを好きだという気持ちに変わりはありませんでした。
受け取らせてもらったものの解釈と咀嚼を重ねるうち、二宮くんの価値観が私の一部にもなったり、同じような考え方はできなくてもその結論に至るまでの論理性に強く惹かれたり、私はもう何年もずっとそんなことばかりを繰り返している。きっとこれからもその姿勢のまま二宮くんのファンを名乗るし、そうさせてくれる存在である二宮くんのことを、勝手ながらとても誇らしく思っています。
ただ貴方がそこで笑っててくれるだけで幸せを感じるんだよって人がこの世に幾人もいることをきっと二宮くんは知っていて、だからと言ってそこに悪い意味で甘えることはしない人だから、安心して叫べます。そこにいて、笑っててくれるだけで嬉しいよ!本当の本当に、ね。
二宮くん、38歳も目一杯、好きなことして楽しく生きてね。やりたいこと何でもやってやろうってくらい、欲張りでいてね。そうやって過ごす日々をほんの少しでも私たちに見せようとしてくれるなら、それが何よりも喜ばしいことなんだと、心から思います。
YouTubeのコメント欄はポジティブな内容のもので溢れてるんだよってちょっとびっくりした様子で教えてくれた二宮くんに、どうかやさしい愛情ばかりが降り注ぎますように。
改めて、38歳のお誕生日おめでとうございます。
生きづらい二宮くんは世渡りが上手
毎年4月になると、かつて二宮くんが日本テレビの入社式で新社会人に贈った言葉が話題になります。
「理不尽なこと言われたり納得できないことで怒られたりすると思うけど、そんな先輩たいした人じゃないから。ハイハイって聞き流してれば大丈夫だから」
もちろんそれができたら苦労しないよ!って言われたらそれまでだけど、緊張の初日にこのアドバイスを受け取れた人の心はどれほど救われたことだろうと思います。
難しいけれど、とても大切で、胸に刻んでおきたい言葉。
私は二宮くんの紡ぐ言葉が大好きで、二宮くんが教えてくれる心構えを実践できる大人になりたいと思って生きてきました。
学生から社会人にかけての時間を二宮くんの言葉と一緒に歩んできた私は、それができているかは別として、賢く生きる術をたくさん知っています。今年もまた入社式の一件がバズってるのを見て、他にもまだまだ沢山ある「二宮くんの言葉」の、私を支えてくれた処世術たちを一度まとめておきたくなったので、この記事を書いています。
(※以下、自分向けまとめなので自分の過去ツイートからの引用・再編集の文章となります。文字起こしとしての正確性はあまりありません。悪しからず!)
・先輩と同期と後輩と二宮くん
「基本的に先輩にはどう思われてもいいみたいな心意気で行ってるよね。何故かというと、これは俺の偏った意見よ、真似はしないでねってことだけど、なんで俺がそういう風にいくかって言うと…(先輩は)どうせ先に死ぬからです」
「最初は同期に先を越されて悔しいと思うかもしれないけどそれが嬉しさに変わる時期が来る、その時に同期との絆や想いを忘れないでいられるといい人間になれるんじゃないかな」
部活で後輩の方が上手いことに悩んでいると言う高校生に対して
「どうしても埋まらない差があることを認めた上で、自分にしかできないことを考える」
「後輩が気持ちよくやっていける環境をつくるのも先輩の役割かもね」
・人間関係と二宮くん
クラスに苦手な人がいっぱいいますという15歳の女の子からのメールに対して
「嫌いな人がいると負けないぞ!という気持ちになって切磋琢磨するから良い結果を生むこともあるんじゃない?」
「質を保って効率を求めようと思ったら仕事相手は好きな人より嫌いな人の方がやりやすいよ。嫌いな人を相手にした方が私情を挟まずに済むから」
あまり仲良くない相手の態度にイライラしたというメールに対して
「俺はイライラしない。だってそこまで仲良くないんでしょ?例えば、家にあるいつか使うかもしれないけど日常的に使ってないものを俺は捨てるタイプなの。だからそこまで仲良くない人のことならもういいんじゃない?そこに質を求めるか、っていう。俺はむしろ仲良いやつがちゃんとしてなかった方が嫌かなぁ」
友達から私服を馬鹿にされて腹が立ったというメールに対して
「友達の定義から考え直さないと」
「向こうは近い間柄だから言えるとか思ってんだろうけど」
友達がよく身体を触ってくるのに困っているというメールに対して
「俺はもうやられて嫌なことについては全力で怖い空気出すよ。さすがにわかると思うな、空気読めないやつでもってくらい。そもそもこの子の理論から言ったら知り合いは友達なんですかね? 友達に何かされて嫌っていうのはもう俺の中では友達ではないのよ。それはもう知人。知ってる人。知ってる人の中に嫌いな人はいるよ。でも友達に嫌いな人っていない」
話してるところに勝手に割って入ってくる人に怒っているというメールに対して
「おしゃべりAIだと思えば気が楽じゃない?」
・緊張と二宮くん
緊張しない方法は?
「事前に最悪の想定を徹底的にすること」
どうしたら緊張しなくなりますか?
「結論から言って良い?…無理だよ。急に左利きで生活してくださいって言われても無理じゃん、癖ついてるから。20年間やってきたものを、急に違う形でなんて無理なんだよ。緊張しちゃう人に、これで緊張しなくなりますなんて無理なの。なんだろうね、自分は緊張しやすいんだってことだけ分かってればそれで十分だと思うけど。その前提のもとで何があっても対応できるように動くから、緊張感をもって臨めるのは良いこと」
仕事で失敗を繰り返してしまうというメールに対して
「なんで失敗を繰り返すのかなんて考えてるうちは一生失敗しますよ。失敗に対して、なぜそれが起きたのか、それによってどういう人に迷惑をかけるのか、私の癖は何だろうか、ってめちゃくちゃ考えるんですよ、リアリティーをもって。波及の仕方を永遠に考えるんです。そうすると緊張しなくなりますよ。予測してるから失敗しても立て直すことができる。緊張するときは?ってよく聞かれるけど、めちゃくちゃネガティブに物事を考えて失敗例を突き詰めてるからあんまり緊張しないんだよな。ポジティブだよ」
仕事でのミスを悔いるメールに対して
「ミスは必ず起きるし、どうせなら若いうちにしておいた方が良い。そのたびに誰かがカバーしてるんだよ、それが組織なんだから」
・アドバイスと二宮くん
筋トレが三日坊主になってしまうというメールに対して
「自分の役作りの場合は演じるというゴールがあるからいいけど、何もないのにやらなきゃいけないのは大変だよ。ゴールが見えないから三日坊主になっちゃうんだよね。たとえば夏に水着を着たい!っていう目標があればさ、その算段で動けるわけじゃん。何も無い中でやっていくのってほんと辛いよねぇ」
お酒デビューを迎える新成人に対して
「合うお酒だけを求めてたらそれがメニューになかったとき困るけど、合わないお酒を知っていれば少なくともそれを避ければいいことはわかるから周りに迷惑をかけずに済むよ」
・異質なものと二宮くん
幽霊はいると思う?
「普通にいるでしょ。当たり前じゃん。今生きてる人より死んできた人間の方が圧倒的に多いんだから、それを生きてる人しか存在しないと思うなんて失礼極まりないよ」
宇宙人について
「〝宇宙人〟なんて言ってるけど向こうからしたら我々地球人も宇宙人だからね」
「UFOを呼ぶ企画やるたびに思うけど呼んで終わりじゃなくて来てくれた先に何か用意しておかないと向こうにも失礼じゃない? 来るのだってタダじゃないんだよ燃料費かかるし」
苦手な虫について
「なんで虫っているんだろう」
「虫からしたら人間もなんでいるんだろうって話だけど」
「虫は嫌いだし気持ち悪いけど、向こうも急に人間と出会ったら怖いだろうな…」
二宮くんの価値観には一貫して強さとしなやかさがあって、自分の持つ常識だけで世界を完結させていなくて、私はそこがとても好きです。
きっと本来の二宮くんは敏感で繊細な心を持つ人物ですが、だからこそ自分のためにスイッチを切るべきところを見つけて意図して動いているのかな、と思います。後天的に得た鈍感さと図太さでもって世渡り上手として名を馳せる人、それが私にとっての二宮くんです。
傷付きたくないから、傷付けてくるような人とは距離を置く。対人関係における二宮くんの価値観はシンプルで一貫していて、そしてとても正しいと思います。やっぱり親から「ストレス溜めるな金貯めろ!」と言われて育ったと言って笑う二宮くんは最高だし、私も座右の銘にしたいくらいです。ストレスよりお金貯めたいもんね、マジで。
そして、自分の外側にいる異質な存在たちの視点に立つことをごく自然に大事にしている二宮くんが好きです。
みんなが当たり前のこととして認識しているものについて「何故そう思われているか?」「そもそも本当にそうなのか?」を考えることが好きで、その思考を言語化することに長けているから結果的に理屈こねくり回すマンになる二宮くんが好きです。
苦手なものがたくさんある二宮くんが、異物に対する怯えの感情の強い二宮くんが、それでも必ず「相手からしても同じ気持ちだろうけど」と言い添えてくれるところが好きです。
自分が傷付きやすいからこそ傷付けることに臆病になる二宮くんの、やわらかい優しさが好きです。
自分のために切り離すべきものは切り離すけれど、排除したものを攻撃しようという思考には至らないところを私は心から尊敬しているし、そうありたいと思います。
その一方で、二宮くんは怒るべきところ、戦うべきところから目を背けない人でもあります。コロナ禍における医療従事者やそのご家族に向けられる差別や偏見の声について「悲しいというか、そんな恥ずかしいことまだやってるのって思う」とはっきり口にしてくれたこと、私は絶対に忘れたくない。
きらきらした夢を紡ぐアイドルという立場は何かを否定するような言葉を言い辛くさせると思ってたけれど、本当に間違っていることに対してはしっかりとした態度で軽蔑の気持ちを表明してくれる二宮くんだからこそ、私は尊敬して止まないし、この人を自担として、この人の感性を自分の人生の規範の一部にしたいと願うのだろうと思います。
自分のファン層が今よりもずっと若かった頃、好きな人がしていることだからという理由で安易に肯定してほしくないと願って絶対的な悪役を演じることを避けていたと語る二宮くんは、己の姿勢に影響を受ける人が世の中に数多いることをわかっている、本当にアイドルらしいアイドルなのだと思います。普通に生きていたら、見ず知らずの誰かの物の見方を左右する存在にはなり得ないからです。そんな二宮くんは、自分の教える価値観の一端が自分を応援する誰かの心を軽くすることもまた、これ以上ないほどに自覚していることでしょう。
決して生まれながらの世渡り上手ではない二宮くんは、自分が獲得してきたうまく生きるためのヒントをいくつも教えてくれるアイドルです。
面白おかしく始まって、気付けば大事な人生訓が説かれているような、決して説教臭くなく展開されるそれらを、これからも丁寧に拾い上げて咀嚼していきたいと思います。
自担が形成してくれた価値観でもって気楽に上手に生きられること、それって果てもなく、オタク冥利に尽きるよ。
わたしの背骨の話
『推し、燃ゆ』を読んだ。
推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。そんな書き出しで始まる小説だ。芥川賞にノミネートされたことでこの作品を知った私は、タイトルを知ってまず初めに、読まなきゃなぁと思った。読みたい、よりも先に読まなきゃ、という感情が浮かんだのは、私が拗らせたオタクの文章を読むのが好きだからで、そして同時に〝そこ〟までは至れない自分を知っているからだ。不健全な憧れを抱いていると思う。
私はジャニオタで、俳優厨だ。私には自担と呼ぶ存在と、推しと呼ぶ存在がいる。そして私は、主人公のあかりと同じく、彼らを〝解釈〟することをオタクとしてのスタンスとしていた。
本当は、生身の人間を解釈したところで、その人の本質を知ることなんてできないと知っている。わかっていながら、提示されたものを咀嚼して考えを巡らすことが私にとって何よりも幸福な時間で、ずっとそうして生きてきた。
あかりは、推しである上野真幸のあらゆる発言を書き止め、ファイルに分けて整理し、彼の思考を読み解く。あかりは、膨大なデータを根拠として、彼なら今からこう言うだろうなと予測し、実際にその通りになる。私もイベントの質疑応答コーナーで推しの答えを頭の中で予想し、その理由まで含めて当てみせたことが何度かある。そういう時は決まって心の中でガッツポーズをする。あかりにとってはもはや当然のことが、私にとっては喜びだった。
自担と推し、二つの軸に支えられる生活を、もう何年も続けている。
自担が出演した映画やドラマ、バラエティ、そしてコンサートの映像を何度も観て、雑誌のインタビューを読み込んで、ラジオを聴いた。正しくあることを望む私はたった一つのファンクラブ名義を握りしめて、年に一度のコンサートを思い切り楽しんだ。
推しの舞台に通うことはルールとして許されたことだったので、何度も足を運んだ。初日から千秋楽までの芝居の変化を読み解こうと必死になってオペラグラスを構え、浮かんだ感想は手紙にして伝えた。ここはこういう意図でこういう演技になったのでしょうか、なんて書いてみて、あとから雑誌やイベントや配信でその答えをもらえると堪らなく嬉しかった。
提示されたものから解釈を重ねることを絶対とする私は、週刊誌の記事だとか、噂話だとか、そういうものが嫌いだった。彼らが見せようと思って見せてくれるものだけを受け取りたくて、周囲に不穏な話が流れ始めると私は決まってもう一人の軸ことを考えて、ほとぼりが冷めるのを待つ。そうやって上手い具合に、楽しく生きてきた。
私は依存対象を分散させることでバランスを保つタイプで、自分が〝そう〟であることをどこかで誇っていたように思う。情報の取捨選択ができること、精神的に健やかな状態を自らの意思で保てること。それが賢いオタクだと思っていたし、実際、今もそう信じている。けれど同時に、たった一人を絶対的な存在として崇めて、のめり込む人のことを、私は確かに羨んでいた。生活の一切を彼に捧げて、彼のことだけを考えている人が綴る文章の、痛いくらいの眩しさと切実さに憧れた。私は、どれだけかかっても彼女たちが見ている景色を知ることはできない。
きっと、自担も推しも、そんなことは望んでいないだろう。彼らは、応援する人の活力となることを望み、それ以上の重みを預けられることを良しとしない。正しくて、健全で、綺麗な在り方だと思う。そして、それだから彼らのことが好きだ(もっとも、これも提示されたものを拾い上げて解釈した結果の、私の予測に過ぎないのだけれど)。
自担は、嵐の二宮和也さんだ。
「にのみやくん」と書いたときの、文字のまるみが愛しい。理屈をこねくり回してとうとうと語る、そのすぼまった口がかわいいと思った。にのみやくんのくれる言葉はだいたい素直でない。もはや彼のトレードマークになっていると言える猫背のようにぐにゃりと曲がっていて、けれどじっと見つめるうちにその奥に驚くほど綺麗な一本の筋が通っていることに気付く、その瞬間が堪らなかった。やわらかくて、まろやかで、そういう存在がひっそりと持っている硬い核の部分が美しいと思う。ずっとこの目で見ていたくて、多分それが私の始まりだった。
ちょうど二年前、2019年1月、嵐がグループとしての活動休止を発表した。寝耳に水とはまさにこのことで、突然の報道に頭が真っ白になったことを覚えている。あぁ、だめだ、解釈が揺らぐ。そう思った。
嵐の人たちは、嵐のことが大好きで、大切で、いつまでも嵐を続けるつもりでいる。いや、続けるというか、もう生き様そのものだから、嵐でいることは彼らにとって息をするように当たり前のことだ。
改めて振り返ってみると、ひどく押し付けがましい願望だった。現実には、アイドルであることを彼らがこれまで選択し続けてくれていただけで、そこに〝絶対〟も〝永遠〟も存在しない。そのことだって私はちゃんとわかっていた、いや、わかっているつもりだった。
にのみやくんがくれる言葉の、いじらしくてわかりにくいところをわかりたくて、一つずつ丁寧に噛み砕いて咀嚼する過程で、私はにのみやくんを様々に解釈してきた。アイドルという生き方に強烈にこだわる、嵐に対する愛情の深さに底がない、地に足のついたロマンチストで、器用なのに不器用で、天才肌の努力家。
その人が発信してきたものから、私はほんの少しも、その日を予感することができなかった。当たり前だ。活動休止はトップシークレット事項で、簡単に匂わせるわけがない。それでも、ずっと変わらないように見えたにのみやくんは、嵐は、あるとき確かに活動休止の四文字を心に決めた。そしてそれを誰にも悟られることなく、その日が来るまでずっと五人だけの胸の内に秘めていた。彼らから意図して発信されたものだけが彼らというアイドルの虚像を形作る全てだと思う、その気持ちは変わらない。だから、見せないことを選んだものがどれだけあっても、私は知らないし、それでいいはずだ。なのに、本当に勝手に、そのことをどうしようもなく寂しいと感じている自分を知る。どれだけ追い求めても、掻き集めても、私の解釈は彼らの〝本当〟に指先すら届かない。
それでも、記者会見を見守る私はやっぱり解釈することを辞められなかった。そして、彼らは散り散りにならないために一旦歩みを止めるのだな、と考えをまとめ、ゆっくりと飲み込んだ。活動休止のあと、大野さんは一旦表舞台から距離を取り、四人はそれぞれに仕事をすると言うし、世の中の人はその状態こそ文字通り散り散りになることだと思うのだろうけれど、私にとってのそれは解散という決定打をもってしか達成されないことだった。
活動休止は、コールドスリープみたいなものなんだろうか。いつか観たSF映画を不意に思い出す。未来のその先で生きるために、身体を一時的に冷凍の睡眠状態に置く。粉々に砕けてしまう前に凍らせることを選んだ嵐は、決して終わらせることを選んだわけではない。きっと私はいつまでもそのことに縋ってしまう。誰の負担にもならないよう、こっそりとだけ。
兎にも角にも、嵐の人たちは嵐のことが大好きで、大切。だからこそ選んだ結果が、これだ。
活動休止を知らせるその会見ですらその解釈を強固なものにされてしまって、私はもう降参するしかなかった。国民的なんて呼ばれて久しい彼らが、グループとしてどう在るかの選択権を自らの場所にきちんと置いていたことが、どうしようもなくかっこいいと思った。
それから一年と少しが経ち、今度は自担が結婚することになった。その日はちょうどコンサート参加を目前に控えていて、私は大学の空きコマに美容院とネイルサロンをはしごして、自らを整えていた。特に意味なんてなく、左手の薬指だけ違う色に塗ってもらって、ぴかぴかのそれを友達に自慢して、結婚だぁ、とふざけていたら、その夜に本当に結婚していたのでびっくりした。日頃から言霊信仰を大事にしていたけれど、こんなところで発揮されるとは思わなかった。にのみやくんが美味しいご飯を食べる、ゆっくり眠れる、パズドラのガチャで神引きする、そういうことだけを叶えてほしいのに。全くもって、ままならない。
私は、自担にも推しにも、所謂リア恋と呼ばれる類の感情を抱いたことは一度もなかった。大抵の場合、私は解釈を重ねるうち、別に隣で特別な存在として見つめてほしいわけではないな、と納得する。それよりも大勢に振り撒く笑顔や、信頼している相手だけに向けるやわらかい表情の方がときめくし、その瞬間に彼が纏う特別な空気を言語化する方が楽しかった。
本当に、強がりでも何でもなく、結婚すること自体には少しの怒りも戸惑いもなかった。むしろ嬉しかった。虚像を背負い続けてきた人のそばに、生身になった自己を受け入れてくれる存在が確かにうまれたのだ。私は勝手に安堵した。プライベートという、元からオタクが介入することの許されない場所で、そこで彼がどう生きていても彼の自由だと思ったし、にのみやくんが設定するアイドルとしての虚像がブレないのならそれで構わなかった。ただその一方で、受け入れることが正義で、祝福できない人はおかしいとも思わなかった。既婚のアイドルなんて推せない、という人がいたって当然だ。そして悲しいことに、この発表が万人に歓迎されるものではなく、たくさんの人に非難される可能性が高いことなんて、にのみやくんは絶対にわかっていただろうと思う。それでも、彼に降りかかる火の粉なんて本当は一つもあってほしくなかった。
あかりの推しは、ファンを殴って炎上した。にのみやくんは、社会的に見て悪いことは何一つしていない。のに、まるで大罪を犯した人みたいに、散々なことを言われて、今までのすべてを否定された。週刊誌の下世話な報道も、有象無象の噂話も、ぜんぶ大嫌いだ。耳を塞いでいても目を瞑ってもほんの少しの隙間からじわりと染み込むように侵入して、私の〝好き〟を苛む。
舞台俳優の推しのことを考えてみる。好きだなぁと思った。そうやって気持ちを浮上させてみたところで、嵐・二宮和也の結婚はあまりにも大きなニュースだったらしく、どのアカウントに飛んでもみんながその話をしていた。結局、嵐のオタクとして運営しているアカウントのタイムラインが一番やさしかった。私はしばらくの間Twitterのトレンドを異国の地に設定していた。文字からして何もわからなくて、そのことに安堵する。日本語の、ひらがなで書き綴られた「にのみやくん」が一番好きなのに、それを見たくないと思うことが悲しかった。けれど、誰かの悪意に満ちたフィルター越しに彼を解釈したら、きっと嫌いになる。私が欲しいものは、にのみやくんの姿と、にのみやくんの言葉だけだった。
この決断がのちに良かったと言ってもらえるようにこれからも仕事に取り組むと、にのみやくんは書いていた。険しい道のりになるだろうし、完全な達成はあり得ない、夢のような話だと思ったけれど、覚悟を決めたにのみやくんはとにかく凄まじかった。
私がにのみやくんを応援し始めて、一番綺麗だと思ったパフォーマンスが、結婚を発表した直後の札幌ドーム公演だった。儚いのに鋭利で、あたたかいのに哀しくて、鬼気迫るほどの美しさで私の眼前に現れたにのみやくんを、まだまだ見つめていたいと思った。グループとして歌って踊るにのみやくんの姿を見られる一旦の期限まで、その時点で残り一年と少しになっていた。
2020年はあっという間に過ぎた。
私は一度も、この目で直接にのみやくんを見ることができなかった。
多くの人にとってそうだったように、私は思い描いていたものとは全く異なる一年を過ごした。卒業式が中止になり、入社後に半年間受けるはずだった研修もなくなり、よくわからないまま配属された部署の上司の顔は未だに朧げなまま。たまにしか会わないし、会ってもマスクを取ったことがない。北京公演の資金にしようと思っていたボーナスは当たり前のように通帳に残っている。舞台も、多くは中止となって払い戻しを余儀なくされた。
そういう色々な不自由や煩わしさ、それに伴う不安や不満は、一年かけてゆっくりと生活に馴染み、少しずつ当たり前になってきている。仕方ない、どうしようもない、を繰り返して、諦めることが上手くなった。
2020年、嵐には会えなかった。会えなかったけれど、嵐は大晦日の、言葉を借りるならキワのキワ、その瞬間まで、ファンに寄り添うことを諦めなかった。物理的な隔たりは確かに存在していても、心を近付けようと、これ以上ないほど真摯に奔走してくれていた。そのあまりに大きな愛情を想うと、今も胸がどきどきする。
大晦日の夜、紅白と中継を繋げて、にのみやくんは、「叶わなかった夢もまた嵐の歴史の一部です」と言った。欠落を認めることは諦めに似ているようで、まったく異なるものだと思う。欠けてしまった思い出まで含めて、嵐は嵐の21年間を自分たちの手で描き切った。
活動休止について頑なに語らないことを選んできたにのみやくんが、最後の最後に教えてくれたのはほんの些細な、けれど明日には叶えられなくなるわがままだった。
「もっとやっていたかった」という、やっと吐露されたそれを受け止めて、大事に咀嚼する。年が明けてもにのみやくんの言葉を受け取る機会に恵まれているとわかっていたけれど、嵐としてステージに立つにのみやくんがくれる言葉はいつだって特別に響く。普通の男の子たちが一定の条件下で神格化する、それがコンサートなのだ、と教えてくれたのはにのみやくんだった。
にのみやくんが四人からもらって四人に向かって紡ぎ続けてきたという言葉たちは、明日からどこに放たれていくのだろうと考えて、それがわからないから「取り上げられちゃう気がして」なんて言うのだろうと思った。アイドルになって初めて人間になれた気がすると語るにのみやくんが、有機的なもので今以上の人生なんて考えられないから生まれ変わるならボタンで動くような機械になりたいと語るにのみやくんが、人生で最も幸福な21年間だったと死ぬ前からわかっていると語るにのみやくんが、2021年、この先、どうやって生きていくのか不意にわからなくなる。
あかりは、推しのいない世界は〝余生〟だと言っていた。にのみやくんにとって今がそうでなければいいと思う。嵐がお休みしている間も仕事が楽しくやりがいのあるものであってほしいし、健康に暮らしていてほしいし、そうやってうまく呼吸のできる自分を厭わないでほしい。
結婚した途端ににのみやくんの過去の発言が全て嘘だったみたいに扱われて、嵐に向けてきた愛情を否定されたけれど、私が一度受け取って飲み込んだそれらは、私の中でにのみやくんというアイドルの像の血肉となっていて、今さら取り出すなんてできないものだった。21年かけて蓄積されたにのみやくんの言葉の方が、それを否定する知らない誰かの言葉よりもずっと重い。
大切なものが塗り替わったのでなく、増えただけの話として、受け止められたら良いのにと思う。
最近、新しくアイドルを好きになった。2021年にはすっかり諦めていたはずの、リアルタイムで配信されるコンサートの映像を観て新曲を聴く生活は純粋に楽しい。まだ満員の観客を前にできていた頃のことも知りたくて、過去のツアー円盤を買った。彼のパフォーマンスはぎらぎらしていて、けれど客席に向ける視線にはひどくやわらかい温度があった。素敵だな、と思う。先日何気なく読んだ過去のラジオの文字起こしの一節に、強烈に胸を掴まれた。この人のことを解釈したいと、単純に、そう思った。今は少しずつ過去のものも含め雑誌を買い集め、テキストを読み込んでいる。
まだまだ知らないことばかりで、これからこの気持ちがどうなっていくかわからないけれど、もしも三本の軸に支えられたら、私の存在は以前よりもっと安定するのだろうか。
年が明けてすぐ、なんとなく気になるアイドルができたと呟いたら、切り替え早くて良いですね、羨ましいです、というマシュマロをもらった。文字通り、めちゃくちゃに、煽られている。一瞬どきりとして、そうだよなぁと思いつつ、単に好きの対象を移行させたわけではないんだけどな、と返そうとしたけれど、マシュマロの返信に許されたたったの100字では恐らく何も伝えられないし、そのためにツイートを連投してタイムラインを埋めるのも忍びなくて、やめた。
実際、そう捉えられてもおかしくないのだろうと思う。私が何を考えて何を追い求めているかなんて、見せなければ誰も知らない。わかってもらえないことを嘆いたところで仕方のない話だった。
相変わらず私の日常には好きの対象が数多ある。たった一人の誰かを背骨にして生きていく、そのことが私にはどうにも難しい。〝彼〟がくれるものだけを拠り所にはできなくて、〝彼ら〟がそれぞれにくれるものを欲張りに食べていたいと思ってしまう。それが私にとっての満ち足りた栄養で、幸福だった。
あかりが綴った感覚と同質のものを、私は異なる濃度で知っている。〝そこ〟には至れない。至れない自分を、そっと、確かに、肯定していたい。
2020.06.17
自担、二宮和也さんが37歳になりました。
今日は間違いなく、とってもおめでたい日です。
さて、お誕生日に合わせてブログに記事を書くのもこれで四度目になるけれど、相変わらず一年が過ぎる速さと自担の年齢の数字に動揺して一旦フリーズしてしまいますね。
にのみやかずなりさんじゅうななさい。かつて「永遠の17歳」と呼ばれた人が、そんな年齢になってしまった。
二宮くんが歳を重ねることについて、私には驚きの気持ちと納得する気持ちが同じくらいだけあります。
相変わらずつやつやのお肌だとかすっと通った鼻筋だとかふんわり優しい眉だとか透過された焦がしキャラメルみたいな瞳の色だとか、二宮くんの見目を構成する全部がずっと変わらず綺麗なので、そんな人がもう37歳になるなんて、と当たり前にびっくりする。同時に、二宮くんが教えてくれる価値観や感性の一端が果てもなく成熟した大人のそれだから、37歳だもんなぁってひどく納得したりもして。
容姿がずっと綺麗なのと同じように二宮くんのそういう精神の美しさも昔から変わらないもので、だからようやく実年齢が追いついてきたような、そういう感覚でも見ている。
二宮くん、哲学的な爺さんに向けて、しっかり真っ直ぐ歩んでいるよね。ベイストで触れる二宮くんの考え方にはっとさせられるたび、私は二宮くんのことがもっと好きになるし、顔や声を好きになったはずの人が尊敬できる人でもあるって幸運だなぁと思う。一度育った心の根幹は衰えないものだと信じているから、私はこれからも歳を重ねていく彼になんの不安もありません。
さて、36歳の二宮くんを見たこの一年間、色んなことがありました。
その中でもやっぱり冬に大きな決断があったことは忘れられないけど、結婚してからの二宮くん、正直どうですか? 私は強がりでもなんでもなく本当に、最高だと思っています。
まあ、そもそもの話、結婚を発表した直後に札幌ドームで観た二宮くんのパフォーマンスがあまりにもかっこよかったから、私はもうそれだけで安心して、この人の進んでいく道をまだまだ見つめていたいって、心に決めていたのだけれど。
結婚だけが幸せの正解だなんて、そんな時代遅れなことは言いません。それでも、二宮くんが自分自身の幸せの形として結婚を選びたいと思ったとき、それを諦めないでくれてよかったなぁ、と強く思います。
二宮くんがアイドルになってくれたおかげで私は彼と出会えたので、アイドルという制約の多いお仕事に就く中で、できるだけ窮屈な思いをしてほしくない。これは私の利己的なわがままで、もちろん、それが嫌だという人も沢山いるだろうし、二宮くんだって分かっていただろうけど、それでも自分自身の望みを捨て去らないでくれて嬉しかった。偶像の自分に求められることに生身の自分を全部そっくり飲み込まれてしまう、そんなことにならなくて本当によかった。
そしてその上で、偶像としての自分のこれからのこともしっかりとした肉声で約束してくれたから、あの日のベイストを聴いていた私は間違いなく幸福だった。
それにしても、最近の二宮くんったら、身体を鍛えて、健康的になって、好きなことは好きなままで。もう本当に、めちゃくちゃ素敵な人だと思う。
あの発表を聞いて私が唯一悲しかったことはもうお家の話やプライベートの話は聞けなくなるのかなってことだったけど、ストーリーで家庭菜園してるベランダの写真をいっぱい見せてくれてなんだかひどく安心した。
僕は人間的に欠けているところがあるので…と言って動物の赤ちゃんにすらびくつく二宮くんが、正面から植物を慈しんでいて素敵だった。動物には絶対に勝てると確信できないと可愛いと思えないなんて話す二宮くんが植物を正面から大事にできるのは、彼らは絶対に攻撃してこないと分かっているからなんじゃないかとか考えて、なんだそれ超可愛いなと思って、まるごと求肥にくるんで食べちゃいたかった。
ベイストでのお久しぶりのお宝音源企画もファンの好みに耳を傾ける新しいニノフェスも、音楽が好きな人なんだなぁって改めて気付かせてくれるものだった。お金が大好きと言って憚らないような人が、別に直接的にお金にならないけど時間と手間のかかることにラジオで着手してくれるって、それだけで愛だと思ったし、何もかも嬉しかった。
それはもちろん、YouTubeでの紙芝居企画やたったの1500円で全コンテンツを楽しめてしまったオンラインワクワク学校に対しても思っていることだけれど。
二宮くんと、嵐が、ファンを楽しませようと思ってしてくれることは全部その心遣いから素敵だなと感じるし、同時に、心からお金を払わせてほしくなる(笑)
私の使ったお金で私が幸せになって、それから、そのお金が二宮くんの食べてるお肉のほんのちょっとの切れ端にでもなったかなという感覚、早くまた味わいたいよね。カイト発売が楽しみです。
世の中が全然落ち着かなくて、悲しくなることも多いし、まだまだどうなるのかわからないことも多いけれど、活動休止の発表に結婚の発表、ここ数年でアイドルのオタクとしてはきっとそれなりの試練を経験して、その上で自担が私にとって最強に最高のアイドルだって胸を張って言えるのだから、もう怖いもの無しなのかもしれないな、なんて。
嵐としての一区切りがもうすぐそこまで迫っていて、その向こうに何があるのかまるで分からなくて、それでも、この先の二宮くんがどんな景色を見せてくれるのか、わくわくした気持ちでいっぱいです。〝この先〟がいつまでのことを指すのかは、まだ私にはわかりません。わからないから、ぐるぐると考え込んでしまうより先に、目の前にいる大好きな人の一瞬の煌めきに夢中になっていようと思います。
二宮和也さん、お誕生日おめでとうございます。
37歳の二宮くん、これからどうぞ宜しくね。私は今年も、きっと貴方のことがとっても好きです。
2019.06.17
自担が、二宮和也くんが、36歳になりました。
毎年この日を迎えるたびに「嘘でしょ!?」って言ってる気がするし実際今年も言ったけど、二宮くんが36歳って信じられます??? あんなにかわいいお顔をしていらして??? 36歳??? もう国を挙げた盛大なドッキリかと思うもんね。すごいよね。
さて、去年一昨年と2年連続で6月17日におめでとう~って記事を書いてきて、今年も何か書き残しておこうと思ってブログを開いたわけですが、去年の記事を何気なく読み返して自分で書いたことなのに言葉の端々が胸に突き刺さってウッッッとなってしまってしんじゃうかとおもったので貼ることにします(テロ行為)。
もうさ〜〜〜〜〜
このときの私、なんにも、本当になーんにも知らなかったんだなぁ。ずっと続けてくれることが当たり前じゃないってわかった気になって、それでもなんだかんだ言いながら嵐は、二宮くんは、変わらずそのままでいてくれると心のどこかで信じ切っていて。そういう時に書いた文章ってどうにも理想主義的で甘っちょろくて、だけどやわらかくて優しくていいなぁ、なんて思ったりもします。
世界は私が考えていたよりもずっと不確かで不安定だったけれど、それでも、休止という決断の表明に際して見せつけられた嵐の姿勢のひとつひとつが笑っちゃうくらい〝嵐〟らしくてかっこよくて幸せで、5人でいることを全然諦めてないのがうれしかった。
活動休止の発表に至ってまで好きの気持ちを深めさせられるなんてこと、多分誰も想像もしてなかったよ。いざその日を越えてしまったらまた感じることは変わるのかもしれないけれど、不思議なくらい凪いだ心で彼らのことを好きでい続けられている今って、多分とても有難いことなのだろうと思います。嵐、すごいよ、すごすぎてちょっとずるい。ほんとに。
ねぇ二宮くん、6月16日に大野さんにそのことを打ち明けられて誕生日をお祝いしてもらえると思ってたのに……!?ってなった日から2年、今年のお誕生日はどうでしたか? もういいよ!!!ってなるくらい、盛大にお祝いされましたか?
私が知ることのできる二宮くんは彼が見せたいと思って見せてくれる姿だけだから、わからないことの方がずっとずっと多いけれど、一生知らなくていいから、ちゃんと幸せに笑ってくれていたらいいな、なんて。そしていっぱいに降り注ぐ幸せのうちのいくつかだけでもいいから、私たちが見ることのできる・知ることのできるところにもそれが、これからもあってくれたら、それだけでいい。もう他に何も望むことはありません。
二宮くんへ。
今日という日までずっとこっちを向いて、歌って踊って笑って喋って、アイドルでいることを選び続けてくれてありがとう。
永遠なんてどこにもないことを私もようやく知ったけれど、それでも、これからもよろしくねって言葉だけは書き残させてください。
36歳のお誕生日、本当におめでとうございます。
アイドルを「背負わせる」こと
2019年1月27日。
アイドルグループ嵐が、2020年12月31日をもって活動を休止することが発表された。
何気なく見たネットニュースのトップページに躍る文字を見て、息が止まった。震える手でクリックして、記事を読んで、読んだはずだけど、目が滑って何も頭に入ってこない。
ツイッターを開いた。よく知ったアイコンの皆が、普段あんなに素敵な語彙でいっぱいに愛を叫んでいる皆が、うまく言葉にできないほどの衝撃を呻き声みたいに綴っていた。ファンクラブの動画を観た。冒頭、よく知ったと思っていた嵐の5人が、全然しらない人に見えた。大野さんが喋る。やっぱりしらない人みたい。4人が喋る。5人で笑う。そこに至って、あれ、いつもの嵐だな、と思った。いつもの嵐が全然いつもじゃないことを言っていることが余計に頭を混乱させて、現実じゃないみたいだった。解散じゃなくて休止、その部分だけが僅かな救いで、光で、でもそれだけだった。
夜8時、会見が行われるらしい。悲壮な顔をした5人が、ごめんなさいと言って頭を下げる光景が不意に浮かぶ。5人だけでちっちゃな円を描いて笑っている彼らが好きだったから、つらそうにしている姿を見たくないなぁ、と思った。突然休止を発表したのは確かに彼らだったけれど、不思議と責める気持ちは少しも生まれていなかった。
結局のところ、会見、活動休止を報告するための場、そんな場面でも、嵐は笑っちゃうくらい嵐で、楽しくてクレバーで優しくてあったかくてその裏側で自分たちの爪をしっかり研いでいる、私の好きになった嵐だった。ちゃんと5人だけでちっちゃくまとまって笑い合ってたし。写真だけ見たらただの新CM発表会見みたいだと思った。
まさかそれが今だとは思わなかったけど、誰かの脱退でも解散でもなく休止って、よく考えたらどこまでも嵐らしい選択だった。ばらばらの粉々に砕くくらいならそのまま美しく凍らせちゃう、そういう人たちなんだ、嵐は。
いつかそれを融かして再びみんなで揃って歩き始める日が来るのかはわからないけれど、でも私が知る限りアイドル史上一番の賢さ、それも偏差値だとかテストの点とかじゃなくもっと本質的な賢さを持っている櫻井翔さんが、半端な意識で気休めを言うような人じゃない翔ちゃんが、復活はありますよ、と休止発表からたったの2日で明言してくれたから、多分大丈夫なんだと思う。それがいつになるかわからないし、その時には5人そろって皺くちゃのおじいちゃんになっちゃってるかもしれないけど、「待つ」ことを許された以上は、いくらでもしぶとく待ち続けてやるからな、という気持ちでいます。待つって行為はしんどいから、待つ側も、待たせる側も。待つことにかけた時間が無に帰すことがつらいから、その期間が長引けば長引くほど期待を持ってしまうし、その仕組みがわかるからこそ迂闊に〝待ってて〟なんて言えないし。嵐のファンならみんな知ってると思うけど、翔ちゃんは迂闊に言葉を発することなんてない人なので、私は今週のnews ZEROを観て、あぁ、待ってていいんだなぁ、と勇気づけられたわけですよ。
そうと決めたら今度はまだ2年弱、嵐が嵐としてその場に居続けてくれるって約束してくれたことを大事にしたいな、と思った。もちろん何も知らなかった頃と同じように彼らを見ることはできないけど、それは仕方のない話で、一時停止する未来を理解しながら、今現在にもちゃんと愛を注ぎたい。輝き続ける姿を眩しく思ったり、しょうもないことを言ってふざける姿を見て笑ったり、ふとした瞬間に寂しくなって泣いちゃったり、そういうことを繰り返しながら2年が経って、またねって言って手を振って、それから先も、私は嵐を好きなままでいるのだろうなぁ、本当に、ずっと。
それから、二宮くん。大切で大好きな自担。捻くれ者で理屈っぽくて、だけど嵐に対する愛情だけは擽ったくなるくらい真っ直ぐに表明してくれる人。自分には欠落が多いけれど嵐になって初めて人間になれたと思う、有機的な物の中で今以上の人生なんて考えられないから生まれ変わるならボタンを押して稼働するような機械になれたらいいな、なんて。彼の人生のほんのちょっとの時間に好き勝手に熱を注いできただけの私なんかじゃ到底語り尽くせないけれど、それでもこの人は嵐を諦めないってことだけは確かに自信を持って言える、これからも一番に愛おしい存在です。大好きな二宮くんはきっと2021年になっても2022年になっても嵐の二宮和也ですって名乗ってくれるし、その度に私は泣きたいような笑いたいような気持ちでその横顔を見つめるのだろうと思います。だってこれは、恋なので。
以上が今回の件に対する現状の私の想いなのだけれど、昨日こんなマシュマロをもらったので、ツイッターの文字数制限の中では書けないなぁと思ってこの場でお返事させていただきますね。
二宮くんのオタクとして生きている私があまり適切なことを言える自信はないのだけれど、それでもせっかく私に宛てて送っていただいたものなので、私なりの気持ちを綴らせてもらいます。あくまでも個人的な心のお話として読んでいただけたら幸いです。
>はるこさん、はじめまして。フォローさせていただいてる大野担です。
会見やzero後に前向きに捉えられるようになってるおたくが増えている一方でまだまだ前を向けない私がいます。 もちろん"嵐が活動休止"という事実が1番さみしいのですか、2年後、4人はいるのに大野さんだけがどこを探してもいない世界が来ることにめそめそしてしまいます。そしてどれもこれも、大野さん本人が望んだという事実なのに。櫻井くんがはっきり復活を断言してくれていても"大野さんは戻ってこないのでは"とどうしても不安を感じてしまいます。
お仕事が来るとまた新しい大野さんを知れるなあって嬉しくて、なのに大野さんは解放されたいって言っていて。なにが大野さんを縛っていたのかはわかりませんが、大野さんと大野担はどうしてもwinwinな関係でない気がして、好きな気持ちが大野さんを苦しめているような気がしてしまいます。これから芸能活動休止する大野さんをどういう気持ちで待つのが正解なのでしょうか。ご意見をください。
まず、綺麗事に聞こえるかもしれないけれど、大野さんのことが好きだと叫んできたこと、お仕事が決まるたびに喜んだこと、そういう「彼を応援してきた今まで」を否定しなくていいんじゃないかな、と思います。
もちろん、期待されることや望まれることにプレッシャーを感じないことがなかったかと問われればそういう側面もきっとあったのだろうけれど、彼が抱えてきたしんどさの本質は彼にしかわからなくて、私たちが確かに受け取れるのは嵐が好きだと言っていた現実だけだから。
どれだけ楽しくて充実していることでも絶えず続くと疲れてしまうし、そうなった時に少し離れたところでゆっくり自由にしたいと思うのはある意味とても自然なことで、20年以上ずっと休むことなくアイドルを背負い続けてくれたことがむしろ凄まじいことなわけで。
アイドルは偶像で、虚像だけど、それは決して嘘じゃなくて中には確かに生身の人間が存在している。忘れがちだけど、めちゃくちゃ当たり前のこと。虚像だからこそ体現できる儚さや物語性が尊くて、有限だとわかっているはずの世界の中で一瞬の煌きの美しさだけが永遠みたいに感じられて、それを目撃して熱くなる胸を、最近で言うなら「エモい」なんて言葉で消費してきた。だって、みんなエモいもの好きだもんな、ほんとに。私も大好きだよ。
だけど、やっぱり世界は無限じゃなくて、生身の人間だから立ち止まりたくなることもあって。立ち止まったときに何が見えるのか、それはまだ分からないけれど、4人になって嵐を続けることもきっぱり解散して個々に活動することも良しとしなかった彼らが復活するならばそれは絶対に5人揃ってのことだから、いつになるか分からない〝いつか〟を待つ覚悟さえあれば、馬鹿みたいに素直に待っていればいいんだと思います。
「アイドル」という虚像は彼ら自身に選択的に背負ってもらうだけで、こちらの願いだけで永遠に背負わせることはできなくて。私たちは自分の好きな人が今日もそれを背負ってくれていることに自覚的であるべきだと思うけれど、別にそれを責めたり反省したり卑下したりする必要はないんじゃないかな、というのが私のスタンスです。ただその事実を理解していることで、ちょっと疲れちゃったよって言われたときに、そうだねぇ背負うって大変だもんねぇってフラットに受け止めて、彼が深呼吸する間を待っていられるんじゃないかな、なんて。
本当のことは良くも悪くも彼ら自身にしかわからないことで、既に発信されているものを後から勝手に深読みして何らかのメッセージを探り当てようとするのはあまり好きじゃないのでしませんが、ただ一つしんどいことがあるとすれば、活動休止という大きな決断をした後も彼らがずっと変わらずに笑ってくれていたこと。だって本当に、その日が来るまで私は少しもわからなかった。20周年のその先も、それこそおじいちゃんなるまで今までと少しも変わらない嵐がそこにいて、道が続いていくと本気で思っていた。だからきっと今までの20年、こちらに見せることなく彼らだけで静かに飲み込んだものが数え切れないほどあったんだなと思ったら、堪らない気持ちになった。
だけどごめんね、私は今までもこれからもアイドルが見せてくれる夢みたいに綺麗な世界が愛しくて、儚さの中で放たれる強烈な輝きが好きです。
(何かしらあれば、よろしくお願いします)
2018.06.17
二宮和也さん、お誕生日おめでとうございます!
おひさしぶりです。前回の更新からぴったり1年が経ってました。ツイッターでは毎日たのしく生きてます。
自担の誕生日にだけ更新されるブログっていうのもねぇ、それはそれで別にいいよねぇ。咄嗟に振り返りやすいし。根っからの横着オタクなので。うん。
というわけで去年の誕生日に更新してた記事を読み返してみたら、1年前の自分とか他人すぎて割と新鮮な気持ちで読み進めることができました。これ私が忘れっぽいだけかな? やばい?
30過ぎても全然アイドルだろうなってはにかんでた二宮くんは34歳になっても全然アイドルだし、35歳だってきっとアイドルであり続けるんだろうと思うよ。
二宮くんの誕生日だからポエム書いた。 - 2日目のカレーライス
去年の私へ。34歳の二宮くんは全然アイドルだったし、35歳になった二宮くんだってそれはもうめちゃくちゃにアイドルだったよ! やったね!! 35歳の二宮くんをお迎えしてまだ1日も経ってないけど*1地球は丸い並にそれだけは自信持って言える。二宮くんは今年もとってもアイドル。
改めて振り返ってみると1年間いろいろなことがありましたね。新曲もアルバムもツアーもバラエティもラジオも映画もドラマも紅白も!もりだくさん!
こうして文字にして羅列してしまうのは簡単だけど、その一つ一つが世に出るまでに二宮くんがどれだけの時間と気力と情熱を注いだんだろう、と思うと本当に頭が下がります。二宮くんと、嵐と、彼らの仕事に関わった沢山のひとたちのおかげで、私はこの1年も本当にずっと楽しく全力でオタクだった。オタクにできることは提示されたものをできるだけ真っ直ぐ楽しんで適切にお金を払うことぐらいだけど、その姿勢をきちんと続けることは実は難しくて、だからこそこれからも楽しみながら頑張りたいな、と思う。
とりあえずブラックペアンBOX購入に向けて日々ちょっとずつ節約します。
それにしても二宮くん、35歳になったけど、今日流れるブラックペアンもベイストも、収録したときの彼はまだ34歳だった。34歳という数字を上手に納得しきる前に35歳になってしまったのは最早ちょっと面白いです。永遠の17歳、ダブルスコアを超えたよ。嘘だろ。
35歳だって事実をやっぱり上手く咀嚼できてないから、とりあえずほんの少しまで34歳だった二宮くんのことをじっくりと考えてみる。くれた言葉を、ゆっくりと反芻してみる。
もし生まれ変われるなら、次はボタンを押して稼働するような無機物がいい。有機的なもので、今以上の人生なんて望めないから、と語った二宮くん。
もし嵐がゾンビに襲われて、絶対に全員死んでしまうのなら、一番最初にやられたい。4回、信じられないほど悲しみたくないもんね、と笑った二宮くん。
こんなこと自担に言われたらもう、愛す以外の選択肢がないです。絶対的に好きだよ。
相変わらず二宮くんの精神は綺麗に真っ直ぐで、こっちが勝手にくすぐったくなるくらいで、だからこそ「大好き」を注ぎ続けることに私はなんの不安も感じなくて。
天邪鬼のかたまりみたいだった彼が、最近ちょっとずつわかりやすく心のやわらかいところを見せてくれるようになってきたのは多分私の勘違いじゃなくて、大人になるってそういうことなんだろうかとか、結構いろいろ考えてみたんだけど、本当のところは一介のオタクの私はまーーーったく知り得ません!(爆)
でも、どれだけ好きでもアイドルの内面を推し量ろうとすることがそもそも無理で、っていうか他人の心の根っこのところなんて誰にもわからないし、そこに悔しさや悲しさを感じる必要はそもそもないじゃん、なんて思い至ってみたらすごく気持ちが楽になった。
二宮くんが見せたいと思って見せてくれる姿だけを、私が私なりの向き合い方で受け取った結果だけが私にとっての真実で、それは虚像に過ぎないけれど、その虚像からもらった幸せは決して嘘じゃない。
そしてそれらすべてのことに彼自身がひどく自覚的だから、ちょっぴり切ないけど心の底から信頼できるし泣きたくなるくらい好きだなぁ、と思う。好き。
うん、好きだよ二宮くん。
「ファンが好きになった瞬間や一番好きだった瞬間の綺麗なフィルターがかかって見られるから我々アイドルは歳をとらないんだよ」という二宮くんの理論、自分たちの存在を他者からの認知によって成り立つものとして偶像的に捉えることにあまりに自然でぞくぞくする 好きしかない
— はるこ (@ra__17ni) January 7, 2018
これからも二宮くんが見せたいもの、やりたいこと、嬉しいこと、幸せを感じること、そういうもののうちの幾つかが、嵐として、アイドルとして仕事をする自分自身の姿に綺麗にぴったりと重なってくれていたら嬉しい。好きになったのはそもそもこっちの勝手で、応援してることだってこっちの勝手なのに、オタクってなんて一方的で無力でそれなのに身勝手なんだろうって思うことも多々あるけど、私が傾けた愛情や心情の揺らぎのどこかに、二宮くん自身の幸福が交わってくれていたら、本当にもうそれだけでいい。虚像を愛しているってわかってるくせに厚かましいことだけど、生身の人間としての幸福にもほんの少しだけでいいから作用していたかったのは、私がたった1つだけ見た「夢」の話です。
それから、嵐会の光景があまりに美しい幸せの縮図だったので、何年経っても5人が描く丸の中にはおいしい食べ物と嵐のコンサートがあればいいなぁって私は本気で願っています。あの穏やかで優しくて光に満ちた空間はきっと虚像じゃないって、「夢」を見させてくれたわけじゃないって、それだけは本心から信じている。
あとはまあ、こっちが偉そうに何か思わなくても二宮くん自身が自分の判断でやり遂げる仕事になんの油断も驕りもないから、私から望むことは唯一、健康でいてくれよな! ということくらいです。ゲームが楽しいのはいいことだけど胡座をかきすぎて捻挫することのないよう、たまには足を組み替えてね。我ながら何なんだこの望みは?
二宮くん、大好きな自担、35歳もいっぱい宜しく!
*1:白状するとこの記事を下書きにしてる段階で二宮くんはまだ誕生日を迎えてない